誰のために働くか

父が40代で亡くなってから
「長生きしたい」と
いつも言っている母。
いつになく気弱に
「長生きすると困るかも・・」と
私と弟の前でつぶやいた。
実家は、二階建ての一戸建て。
私からも弟からも離れた場所。
部屋6つ。
母一人で住むには広過ぎる。
そこで
その家を貸し、
弟家族のそばに
マンションを借りて
住んでいる。
マンションの家賃は、
貸している家の家賃を
充てている。
だが先週、
貸していた一家が
家を新築して
退去してしまった。
母のマンションの家賃は
これから
毎月持ち出しになってしまう。
母いわく、
「長生きしてしまうと家賃が足りなくなる」と。
すぐ近くに
住み心地のいい住まいを
何の心配をさせることなく準備してあげられない
自分の不甲斐なさを感じた。
母のために、
もっと働こう。
My thoughts on my mother
She lives alone
I and my younger brother would like to prepare the house for her
Attached photo is shot at Venezia, Italy

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交通費に対する認識の齟齬について

「交通費」は勤務先が払ってくれるもの。
会社員時代は当然のようにそう考えていたが、
会社を辞めたら自分で払うものだと気づいた。

独立した立場で
組織に雇用された立場の方と
仕事のやり取りをすると、
しばしば
この点で
齟齬が生じることに気づいた。

つい先日、
旅費が出るか出ないかが
わからない状況での講演依頼があった。
往復三万円以上かかる遠方である。
依頼者は、
旅費捻出の有無を確認せずに依頼することは
たいした問題ではない、
と考えている。
雇用されている立場だと
「交通費は自分ではない誰かが払ってくれるもの」なので
交通費を依頼者個人が負担するという感覚がない( or 薄い)
ということに気づいた。

大きな組織を飛び出して生きるって、
大変なことも多いけど
新しい学びがたくさんある。
命を使いきっている感覚がある。
その状況を楽しめる人にとっては
楽しいのだと感じる。

(写真は年末年始に訪問したトルコ・イスタンブール)
Attached photo is shot at Istanbul, Turkey

IMG_7288

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日航機墜落事故から30年

日航機墜落事故の報道を見ていて
初めて気づいたことがある。
この年は、
父が亡くなった年だった。
そうか。
あれから30年経つんだ。

生存者の一人
川上慶子さんのお兄さん
千春さん(当時14)は、
事故後、高校不登校になり
困っている人を助けたい思いから
介護士になられた。

川上慶子さんも
学校卒業後は看護師になり
阪神大震災のときには
被災した方々の支援をしたという。

今回、お兄さんが
取材を受けた理由について
「事故や災害でご家族を亡くした方にとって、
何か手がかりとなるものを提供できればという思い」
と語っておられた。

ご自身も、
これまで大変なご苦労を積まれたであろうに、
どこまでも弱い立場の人の気持ちに寄り添い
何か役に立てればという思いを抱いて
行動しておられることに
心を動かされた。
手帳に書き留めている言葉
「人は肩書きより生きざま」
を思い起こした。

(写真:父とわたし)

Attached photo is my deceased father and me
He passed away in 1985
– Incident in 1985
The Japan Airlines Flight 123 (JAL 123) Disaster on August 12th
The crash site was on Osutaka Ridge, near Mount Osutaka, all 15 crew members and 505 of the 509 passengers on board died

http://bit.ly/1gBJO4g

Iderumi_Father_Kesyo

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私の尊敬する高校時代の同級生

日本で初めて聾唖者として東大に現役合格し、日本で初めて聾唖者として司法試験に合格した人。
聾唖の弁護士は日本でたった一人。
私の尊敬するクラスメートである。

One of my high school class mate is a deaf person, but he passed the exam of the University of Tokyo and passed the bar exam. He is the only deaf lawyer in Japan. I’ve respected him very much. ( the attached photo is me and him when we were high-school-students )

世間的には東大に受かったことがすごいのかもしれないが、私がすごいと思ったのは、彼が高校3年の秋ごろの模試でD判定(A・B・C・D・Eの五段階評価の下から2番目)だったのに諦めなかったところである。あのとき、模試判定の結果を同級生に見せながら笑っていた。この絶望的な状況で、どうして彼は笑っていられるのだろう。

最も心を動かされたのは、彼の姿勢 ー生きざまー 前向きさと明るさだった。
教室の前の方に座り、先生の唇の動きを見て授業を受けていた。
通訳はいなかった。
足らないところはクラスメートに教わっていた。
学ぶのがとても楽しそうだった。

当時、私は九州の県立高校から千葉の県立高校へと転校させられ、父をー 何度も何度も繰り返す父の転勤をうらんでいた。幼稚園のときから、早いと1年ちょっとで引っ越し。転校すれば、教科書は違う、言葉(方言)は違う、遊び方も食べ物も友達も住むところも何もかも違う。おまけに、福岡で受験勉強がんばって合格した県立高校も、入学して1ヶ月後に「転勤」で「転校」。で、どんな高校があるのやらまったくわからない千葉の高校をいくつも受験し直しだなんて・・・
もう振り回すのはいい加減にしてくれよ。

その前に「受験失敗」という苦い思いを味わっていた私は、編入した千葉の高校で、大学受験ではもうあんな嫌な思いを味わうまいと、それなりに勉強していた。だから成績は比較的よかった。
でも、彼だけは抜くことができなかった。

D判定でも諦めない。
前向きで明るい。

小学校で父親を亡くして母子家庭で育っていた彼は、自分の母親のように社会的に大変な状況にある人を助けたいと思い、弁護士を目指していた。

仕事のモチベーションが「金(money)」しかない人は、すぐわかる。
彼のように、人を助ける、誰かの役に立つ、社会をよくすることが勉学や仕事のモチベーションになっている人は、強い。
あきらめない。

私が奈良の大学を選び、一校だけ受験し、合格した後、
彼も、D判定だった東大に現役で合格したことを知った。
当時、全国紙が「聾唖者として初の合格」と記事にしていた。

その後、私が大学卒業し、最初の会社を辞めて青年海外協力隊として
フィリピンへ赴任していたとき、
母が新聞記事の切り抜きを国際郵便で送ってくれた。
彼が、5年かけて大学卒業し、社会人になり5年め(大学在学時から8年め)、市役所の仕事をしながら何度も司法試験にチャレンジし、
前例のないところで闘い、
ついに日本で初めて聾唖者として司法試験に合格した、
という全国紙の記事だった。

先週、彼の連絡先を調べ、連絡したところ、返事がきた。
忘れたかな・・と思った私のことを憶えてくれていた。
弁護士業をはじめて17年になること。
依頼者の8割が健常者で、2割が障害者であること。
社会的に困っている障害者の役に立ちたい・・と思っていたら
いつのまにか17年が経ってしまったこと。
来年2016年4月より障害者差別法が施行されるので、
その頃には障害者を取り巻く状況も変わると期待していること。

あの頃と変わってないね。
今までやってこられたのは
あなたのおかげでもあるかもしれない。
あのとき出逢えて本当に良かった。
ありがとう。

*昨年(2014年)全国紙に取材された際の彼の言葉
『スピード感ばかりが尊ばれる社会が、人々の本当の幸せになるのだろうか。人と人が分かり合うコミュニケーションは、本来、時間がかかるものだ。一歩引いて、あえて時間をつくってゆっくりやることが必要なのではないか』
(写真は高校3年の文化祭、豆腐を使ったヘルシードリンクの店をやった時)

田門浩さん_薬園台高等学校

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王貞治選手と甲子園で対戦した父

46で亡くなった父は、
甲子園で王貞治選手と対戦したことを
いつも自慢していた。
リリーフだったらしいが。
家の箪笥には
王貞治さんのサイン色紙が飾られていた。
当時の新聞記事もよく見せられた。
My deceased father and Sadaharu Oh pitched against each other in the national high school baseball championship - around 60 years ago

IMG_1983

小さい頃、運動と体育の授業が大嫌いだった。
父とキャッチボールをやらされては
「下手くそ!」と怒鳴られた。
50m走ればタイム10秒以上かかる。
跳び箱飛べば飛び越せずに上に乗る。
ドッジボールやれば当てられる。
そんな運動音痴の私が
父の故郷である久留米で
福岡県立明善高等学校のバドミントン部に入った。
入学1ヶ月後にまた父の転勤。
せっかく高校受験に合格したのに・・・
1年後に編入試験を受け
千葉県立薬園台高等学校へ編入。
内向的なので、
新しい場所になじむのが苦手なのに加え、
思春期の4年間を九州で過ごしていたので
関東の空気にとまどった。
中学でやっていたブラスバンド部にも入らず
高校でやっていたバドミントン部にも入らず
帰宅部となった。
高校の部活を途中で断念したことを悔いた。
大学では何か続けよう。
奈良女子大学に入学。
いろいろ迷ったあげく、
うんち(運動音痴)の私が
体育会の硬式庭球部に入った。
毎週5日間、月木以外、
火・水・金・土・日が練習日。
真っ黒になった。
髪は日焼けで茶髪になり
地肌まで焼けた。
それだけやっても
高校からテニスをやってきた仲間には到底かなわない。
ネットの前に出ていってボレーする瞬発力もない。
ジャッジミスをして先輩には怒鳴られる。
でもそのうち
瞬発力はなくても
持久力があることに気づいた。
ストロークでつなげば
相手が失敗するまで粘り強く返す「壁」になった。
シングルスをやれば
7-6
6-7
7-6
で勝つ。
ボレーの強い選手と組めば
自分のデメリットが補われ
自分のメリットが発揮されれば
最強のペアになる。
テニスって面白い。
何でも万能にこなすナンバー1とナンバー2が組んだペアが
ボレーだけが強いナンバー3とストロークが強いナンバー4のペアに負けたりする。
大学を卒業し、
最初の就職先を辞め、
青年海外協力隊に参加した。
訓練所での3ヶ月の訓練中
「10kmマラソン」というのがあった。
訓練生は約200名。
そこで
女子で2位になった。
1位は体育隊員(体育を専門分野とする隊員)。
タイムは10km50分。
50m走れば10秒かかる運動音痴の私も
10km走れば50分のタイムを出せる。
瞬発力がなくても
持久力がある。

コンプレックスを恥じなくてもいいんだ。
自分にないものを人が持ってるからといって
うらやんだりねたんだりしなくていいんだ。
その代わりになるものを自分の中に見出せばいい。
代わりがなければ今から生み出せばいい。

自分のコンプレックスに出逢うたび、
父とのキャッチボールを思い出す。

Iderumi_Father_tsukushi

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