先日、講演にいったとき、聴講してくださった方に、「井出さん(の生き方、キャリアの積み方)は、ダウンシフターみたいですね」と言われて、この本を購入してみました。
確かに、「外資系企業管理職」からNPOの仕事をする人への転身は、そう見えますね。
収入が多くても、幸せではない人もいます。
ある程度の収入は、生きていく上で必要条件だけど、過剰なお金は必要ないのではないか。
しかも、その「過剰なお金」を得るために、自分の時間や、精神と身体の健康など、なにかを犠牲にしているのであれば・・・
「お父さん、倒れたって!」
奈良女子大学寮の4人部屋で一緒の先輩が、
わざわざバイト先まで
走って呼びに来てくれた。
当時、携帯電話などという便利なものは無い。
奈良市内にある商店街の、
奈良漬を売る老舗店。
その2階にある
北海道料理の居酒屋で
アルバイトをしていた。
月曜日。
12月の寒い日。
風邪をひいていた父が、
はり・きゅう治療へ行き、
そこで倒れ、
入院した、と。
木曜日、
また電話があった。
もう命が危ないから帰ってくるように、
との報せ。
その夜は眠れなかった。
一方、
こうなることを
頭の片隅で予想していたかのような、
妙に冷静な自分がいた。
編みかけの
濃い青色のセーターを、
徹夜して仕上げた。
金曜の早朝、
青いセーターを着て
大阪空港から高知空港へと向かった。
母と弟が病院にいた。
父の意識は
すでに無かった。
夏に帰省して以来、
二度目に帰る
高知城近くの社宅。
布団をかぶった。
涙が出た。
土曜の朝7時過ぎ、
父の息は止まった。
医師が、
私と弟を別室に呼び、
脳梗塞という病気の説明をしてくれた。
まだ10代の我々に対し、
メモ用紙に脳の内部の血管の絵を描き、
真摯に、丁寧に、説明してくれた。
火葬場で、
45歳だった母は
喪服をまとい、
泣き叫んだ。
46歳の父。
弟は10歳。
その日から
「男にならなきゃ」と思った。
大黒柱を失い
母と幼い弟が残された。
自分は父親代わりにならなくては。
大学では奨学金をもらった。
母と弟は、社宅を追い出された。
千葉県八千代市の持ち家に帰りたいが、
銀行の人に貸してしまい、入れない。
母と弟は、
持ち家近くのアパートに入ることになった。
父が持っていた大量の蔵書。
小さなアパートには入り切らない。
10歳の弟が自転車をこぎ
自転車に乗れない母を後ろに乗せ、
父の蔵書を載せ、
古本屋に売って廻ったことを
あとで知った。
銀行の支店長だった父の父(祖父)の意向で
支店長を目指し、
ようやく支店長になったと思ったら
5ヶ月後に死んだ。
死んでしまえば
もう銀行の職員ではないので
社宅は追い出される。
組織というところは
いくら貢献しようが
死ねば終いだ。
一人居なくなっても、
仕事ぶりに違いはあっても、
いくらでも代わりはいる。
あの日を境に
内向的だった私は
行動的になっていった。
人間、いつ死ぬかわからない。
今、やっておかなければ
いつ死んでしまうかわからない。
「どこからそのエネルギーが出てくるんですか?」
と聞かれる。
そのたびに、
父を思い出す。
父は、私の中に生きている。
(写真:札幌支店勤務の頃の父と私)
死にたい。
この世から消えてしまいたい。
青年海外協力隊としてフィリピンに2年近く滞在。
任期満了はあと数ヶ月、目前だった。
国際電話で、JICA(ジャイカ)の顧問医と話した。
そのあと、協力隊の調整員から言われた。
「明日、帰国するように」
荷物はそのまま置きっぱなし。
お世話になったフィリピンの人たちに挨拶することもなく
マニラから帰国した。
同じ任地にいた隊員二人が、
往復6時間もかかるマニラの空港まで送りに来てくれた。
涙がとまらなかった。
飛行機に乗ってからも、泣き続けていた。
なぜ、こうなるんだろう。
なぜ、こうなってしまったのだろう。
うつ状態になっていた。
自覚はなかった。
強いていえば、
二者択一で迷ったとき、
どちらに決めても後悔するような
優柔不断になっていた。
2年間という長い期間、頑張り過ぎたのか。
食生活で充分栄養素が摂れていなかったのか。
自分の成果をある人がもぎ取ったと思ってしまったのか。
帰国してからが地獄だった。
大好きなお寿司を食べても味がしない。
砂を嚼んでいるような味。
お世話になったフィリピンの人に手紙を書こうとしても、
思考が止まって一文字しか書けない。
やせ細って、何をする気もしない。
寝ようとしても、眠れない。
何をする気もしない。
しないどころか、生きているのもイヤ。
前の勤務先の人から
「なんで(何の目的で)行ってきたの?」
と言われると、
「ああ、行っても何にもならなかった・・・」
と思い、自分で自分を責めてしまう。
なんで、あと数ヶ月、がんばれなかったんだろう。
なんで、会社辞めちゃったんだろう。
なんで、なんで、なんで・・・・
帰国して五ヶ月間は空白だった。
その後、食べ物の仕事に就こうと思ったが
勤め口が無かった。
いろいろ探したあげく、
好きだった本の仕事を見つけた。
紀伊国屋書店の内勤の営業になった。
朝9時から午後3時までの契約社員。
伝票と向き合う、受注発注の仕事。
九段下。
毎朝、起きるのがおっくう。
職場へいくのが面倒。
人としゃべりたくない。
そして七ヶ月後。
「とらばーゆ」という求人雑誌で
「日本ケロッグ」という会社を見つけた。
求める人材として、
消費生活アドバイザーの資格保持者、
英検2級、
日本語の文章を書ける人、とあった。
すべて持っていた。
一次試験、二次試験、合格して
晴れて社員となることが決まった。
それと並行し、
誰とも会いたくない中で
わざわざ、実家近くの最寄り駅まで
会いに来てくれた人がいた。
前と変わらないで接してくれる。
その態度が、傷心に沁みた。
思えば「感謝」を忘れていた。
自分の「無い」ものばかりに注目していた。
味覚が無い。
やる気が無い。
書く力が無い。
人と会いたくない。
・・無い、無い、無い。
でも、
振り返ってみれば
こうして、前と変わらず
自分と会ってくれる人がいる。
誰もいないわけじゃない。
一人でもいれば、いいじゃないか。
ありがたい。
有難い。
「どうやって、うつ状態から
立ち直ったのですか?」と
よく聞かれる。
人には波がある。
人生、いいときばかりじゃない。
悪いときもある。
その悪いとき、
自分がどれだけ這い上がろうと努力できるか。
どれだけ「無いもの」ではなく「あるもの」に感謝できるか。
そして、
そんなときでも
自分を見てくれている人がいる。
あの、つらかったどん底のとき
会いに来てくれた人。
いまの伴侶である。
(おわり)
上記は
ひきたよしあきさんの著書
『あなたは「言葉」でできている ビジネスコミュニケーションが劇的にアップする“自己表現”のヒント』を読み、
自分のエピソードを探してノートに書いてみる、
というのにならって書いたものです。
私は多くの方に独身者と思われていますが、既婚者です。
Facebookでは、いろんな方が
家族の写真や投稿を楽しんでいます。
家族が了承しておれば、家族の写真や出来事を投稿するのはその人柄が出て、とてもよいと思います。
その一方で、家族は自分の所有物ではなく
違う価値観を持った”他人”だと思っています。
配偶者がプライベートを公開したくない、
という意志であれば
それを尊重したい、と考えています。
昨日、地震がありました。
このまま死んでしまったら
義理の両親への感謝の気持ちを伝えられない・・と思いました。
また、著書「一生太らない生き方」を読んだ義父母が
「お母さんのことは書いてあったけど、
私たちのことは書いてなかったね」と、さみしそうでした。
配偶者のことに触れない、ということは、イコール義父母のことも
書かないことです。そんなことまで頭がまわりませんでした。
さみしい思いをさせて申し訳なかった、という気持ちもあり
ここに書き残しておきます。
結婚する前、長野県北佐久郡北御牧村(現 東御市)の家をたずねました。
2回目の訪問のとき、お酒をちゃんぽんで飲まされ(自ら飲み)、
こたつでひっくり返って介抱されていました。
ふつう、2度目の訪問で、しかも身内でない家となれば遠慮があると思いますが・・・
どれだけ破天荒だったことでしょう。
やはり結婚する前、「夏祭りがあるからおいで」と言われ
一人で訪問し、
村主催のカラオケ大会に出たら特別賞をもらい、
村の人たちから
「ありゃ、誰だい・・」
「○○くんのガールフレンドらしいよ。。。」と
ちょっとした騒ぎになりました。
ほかのときも一人でたずね、
おばあちゃんと義父母の4名で、台所で飲んでいたら
酔って、立った瞬間にぶっ倒れ、
床に音を立てて倒れたこともありました。
そんなふつつか過ぎる嫁なのに、
結婚する前も、した後も、
一人で訪ねても大大歓迎してくれて、
3人でいろんなお酒を飲んで、悩みを話したり昔話を楽しんだりできる。
他の人に話すと
「義理の両親のところに配偶者無しで行くなんてありえない〜」と言われます。
転勤族の子どもとして育ってきた私にとって、
長野という田舎ができたことが嬉しい。
また
実の父親が10代で亡くなっているので、
義理の父ができたことも嬉しい。
結婚前には「嫁姑」戦争っていう言葉に耳年増になっていたけど
義理の母との間にそんな言葉もありません。
遠く離れていても、折に触れてお米や野菜を送ってくれ、
大学院に合格すればお祝いをくださり、
本を出版したとなればまたお祝いしてくださる。
いつもあたたかく迎えてくれるお母さんと思っています。
配偶者が8ヶ月間の世界旅行に行って、留守だった時期は、
手作りのお惣菜を何度も何度も送ってきてくれました。
先月末、初めて著書を出したら、
知り合いや、プールの仲間、親戚など、
ありとあらゆるいろんな人に営業しまくって、
10冊以上、売ってくれています。
地元の図書館にも話して入れてくれたとのこと。
メディアの取材を受けてテレビに出るとなれば、これまた
「うちの嫁が・・・」といって、みんなに宣伝しまわってくれる。
長野市内の仕事があり、
二泊三日で泊めてもらったら、
仕事先まで車で義父母ともども送ってきてくれる。
今回は、今日、新潟県妙高市で講演があるので
前の晩に泊めてもらったら、
駅まで迎えに来てくれて、
そのあと近くの温泉に連れていってくれ、
義母と一緒に温泉につかりながら話をし、
そして3人でお祝い会(晩餐)となりました。
こんなにも良くしてくれる、
こんなにも嫁によくしてくれる義理の両親。
自慢であり、誇りであり、大好きです。
私にとっては世界一の義父母です。
こんな二人に出逢えたこと、
ご縁をいただけたことが、とても幸せです。
感謝しています。
ありがとうございます。
男女とも日本一長寿の長野県で、
いつまでもいつまでも長生きしてください。
(写真はきのうの晩ご飯。さすが長野の農家、野菜が多い。
ヤーコンのサラダ、いなごの佃煮、私の大好物のお寿司など)
ドッジボールをやればすぐボールを当てられる、跳び箱を跳べば上に乗っかってしまい飛び越せない、50メートル走れば10秒かかる。そんな ”運動音痴” の私が大学で体育会に入ったのは、福岡県立高校で一念発起して入っていたバドミントン部を、千葉県立高校への転校をきっかけに 途中でやめてしまったことが一つでした。
北海道から九州まで、都市銀行員だった亡父の転勤について、転校転校、また転校。どうしても一つのことが継続しづらい環境の中、高校受験に合格したとたん、5月にまた転勤。反抗期もあいまって、両親に対しても社会に対しても反感を持っていました。途中でやめてしまい継続できなかった自分に対する悔しさと、自信の無さ、コンプレックスもあったと思います。
先日、神戸大学で「社会コミュニケーション入門」の講義に呼んで頂き、立ち見が出るほどの200名近い学生に講義を聴いて頂いた際、食品ロスの話に加えて、自分が大学生のときから築いてきた食のキャリアと挫折体験などについてもお話しました。最後に多くの学生が質問してくださった中、ある男子学生が「僕も体育会なんですけど、体育会に入っていて良かったことってなんですか?」という質問をしてくれました。
【体育会に入っていて良かったこと】
1、仕事に必要な体力と精神力が身につけられる
2、卒業して長く経ってなお継続する友人が得られる
3、自分の強みを発見でき、コンプレックスを強みに転じることができる
1番目は痛感します。仕事に技術や専門知識が必要なのは言うまでもないですが、人間関係を築く力と体力、精神力は必須だな、と。年を重ねれば重ねるほど体力は落ちてきやすいですから・・・
2番目、先日の神戸出張の折にも奈良女子大学時代の友人と会いに、奈良へ行きました。昼は食物学科の友人の自宅に招いてお手製のご馳走を頂きました。夜は体育会硬式庭球部の友人と「粟ならまち店」で会いました。話せばすぐ、あの頃に戻ります。
3番目、これは大きかったです。自分は「運動神経が悪い」「甲子園にいった父と違って運動音痴」というコンプレックスがありましたが、意外にも持久力があることがテニスを通してわかりました。パッとボレーをする能力はなくても、ストロークで粘る力がありました。7-6,6-7,7-6のようなスコアで勝つことも。「粘りのるみ」と言われていました。
「運動音痴」「運動神経が悪い」というコンプレックスが、転じて、
「瞬発力はないけど持久力がある」
「あきらめないで粘る力がある」
といった長所と、自分の強みを発見することに繋がりました。
また、その後、青年海外協力隊訓練時の10キロマラソンでは、なんと女子で2位!50分のタイムでゴールし、体育隊員に次いで2位を獲得しました。(同期隊員には、倒れるまで走るのはやめなさい、と諭されましたが)
今は、体育会で頑張るなんて流行りではないかもしれませんが、私の財産のひとつだと実感しています。
関西出張のたびに集まってくれる体育会の同期、食物学科の同期のみんなにも感謝。ありがとう。