オリンピック候補地として立候補したときの桜のカラフルなロゴは、今いずこへ??
外国籍の方々が「(候補地の中で)一番素敵なロゴだったのに」「日本人はこれ忘れてるのか?」とコメントしています。
Where is the logo of “TOKYO 2010 CANDIDATE CITY”?? It was attractive and impressive
Just what the heck is the Tokyo Olympics symbol supposed to be?
オリンピック候補地として立候補したときの桜のカラフルなロゴは、今いずこへ??
外国籍の方々が「(候補地の中で)一番素敵なロゴだったのに」「日本人はこれ忘れてるのか?」とコメントしています。
Where is the logo of “TOKYO 2010 CANDIDATE CITY”?? It was attractive and impressive
Just what the heck is the Tokyo Olympics symbol supposed to be?
小学校5年のとき、いじめを受けた話を書いた。
今朝、当時書いていた「作文ノート」を見つけた。
担任の若い女性の先生が赤字で丁寧に書いてくれていたコメントが沢山あった。
Message of thanks to the teacher of elementary school days
改めて読み返してみると、
先生が、私のことをよく観察し、励ましたり褒めたりしてくれていたことがわかる。
自転車を買ってもらった作文に対して
「先生が今、乗っている自転車は、小学校の時に買ってもらったものです。大事に使えば、いつまでも使えます。大事に乗ってね。」
裁縫の作文に対して
「先生もあまりじょうずではないので、留美さんを見習ってがんばろうかな。」
休日、家族4人で木曽川へ出かけたことに対して
「津島に来て、さっそくいい所を見つけてくれて、ありがとう。この辺もなかなかいい所でしょ。仲よく、がんばっていこうね。」
自分で考えた料理の作文に対して
「留美さんは、クラブは料理クラブでしたね。またがんばってね。」
小刀でえんぴつけずりをした作文について
「とても、いいことですね。クラスのみんなにも教えてあげたいね。先生の鉛筆も、今度けずってください。」
「三学期が始まりました。この西小へ転校してから、一学期がすぎましたね。いろいろ思い出ができましたか。短い三学期だけれど、悔いのないように、いっしょうけんめい、やろうね。」
学習発表展覧会に対して
「展覧会を開くまでに、みんな実に大変な苦労をしましたね。でもそれらが全て集まって、一つの作品ができあがった時の喜びは、大きなものでしたね。やりがいのあることというものを、展覧会を開いて、みんなけいけんしたと思います。じっくりやって、いいものを作る。いつもそんなふうにしていきたいと思います。」
社宅の前にゴミがよく落ちているという作文に対して
「(留美さんの)家の横の通りは、人や車がよく通るので、中にはそういうことをしていく人もいるのでしょうね。私達だけでも、そういうことはしないようにしていきましょうね。」
自転車と車が衝突した事故現場を見た作文に対して
「(留美さんの)家のそばは、いろいろなことがあるんだねぇ。留美さんもよく自転車に乗るようだから、自動車にはよく気をつけてね。」
ピアノを習っているという作文に対して
「ピアノの先生になったら、ぜひ教えてもらいないなあ。」
誕生日が3月なので4月生まれがうらやましい、という作文に対して
「先生は、4月生まれだから、3月生まれの人がいつまでも若くてうらやましいと思っているんだよ。きっと、(留美さんは)はやく大人になりたいんだね。」
「西小学校での5年生の間に、いろいろ思い出ができただろうか。
あなたのがんばりは、だれにも負けていませんよ。
六年生としてのこの一年を、思い出多いものにするよう、がんばろう。」
先生に御礼が言いたいけど
もうお会いすることはできないのかな。
愛知県津島市立西小学校にいらした堀田貴代美先生です。
先生が愛情を持って接してくださったおかげで
いじめを乗り越え、
こうして社会人になることができました。
ありがとうございました。
東芝の件。
Heads roll at Toshiba as scandal claims top brass
http://bit.ly/1gN30wq
今回の件が明るみに出たのは内部からの通達だと言う。
「過大な目標数値」と「逆らえない企業風土」。
おそらく、日本社会の中では氷山の一角だと思う。
私が外資系企業で過ごした14年半は、概ね居心地のいいものだった。
2つのトクホ(特定保健用食品)の申請や認可に関わることができた(写真:オールブラン・ブランフレークでトクホを取得し、営業会議で発表した)。
実践的な英語を学ぶ機会を与えてもらった。
お客様対応を5年間兼務し、全国の5歳から80代までの幅広い人の生の声を聴く機会を得ることができた。
仕事をしながら大学と大学院に6年間も通い、栄養学を学ぶ機会を与えてもらった。
臨床試験で自社製品を使い、腸内環境と皮膚に与える影響を論文にした。
それをプレスリリースで発表し、メディアの露出を獲得し、売上に繋げた。
海外でのグローバルな会議に何度も出させてもらった。
会社で一名の広報と栄養の担当として活動することができた。
「広報室ニュースレター」を11年間配信することができた(合計1305号)。
営業部や工場など、現場で格闘する社員たちと過ごすのは心地よかった。
転校生として育ってきた私は、そもそも同じ場所に10年居たことがなかった。
「そんなに動くって、お父さんサーカス?」と聞かれたこともあった。
自分は根っからの風来坊で、同じ場所に居られない人間なのではと危惧した。
勤続10年を迎えたとき、「自分も10年ひとつ所に居られる体だったんだ」と安堵した。
でも、会社にいて疑問に思うことはあった。
KPI(Key Performance Index)として
「対前年比」で今年度の業績を評価することである。
多くの企業で「対前年比」を使っていると思う。
それが適切な場合もあるし、傾向を示すマーカーにはなる。
だが、自分の(自社の)努力でどうにもならないこともある。
社会の時流にのって今年爆発的に売れれば、翌年は厳しくなる。
競合会社の調子がよく、その恩恵を受けることもある。
天候が悪く、予想を下回ることもある。
個人に向けての言葉で、よく「変えられないことを悩むな、(自分に)変えられることに取り組め」というのがある。
天候も経済状況も、自社の努力だけではどうにもならない。
なのに、なぜそれらに左右される「対前年比」を事業の指標として使うのだろう。
なぜ「たまたま」の数字に、我々が右往左往しなければならないのだろう。
もう一つ
広報の成果を示す「広告換算」。
「もし広告でこれを出したらいくらかかる」を算出するものである。
あれも一つの参考にはなるが、
マーカーの一つに過ぎない。
メディア露出だけは多いが、自社の真の目標に繋がらないケースもある。
数字はグローバルで通用するので便利である。
だが数字の奴隷になるのは危険である。
数字だけで表わせないものもある。
優秀な経営者は、数字を見るのはもちろん、数字で見えない部分も観ていると感じる。
厚生労働省が発表しているホームレス調査。
年々減って、現在、全国で7,000数名という。
本当にこれだけだろうか。
調査する人たちの就業時間中の日中、生活困窮者の人たちはネットカフェや知人宅など人目のつかないところに潜んでいるから算出できないだけではないのか。
確かに、減っている側面もある。だが
見えない貧困を反映している数字だろうか。
国民健康・栄養調査。
ビタミンB群やCの摂取量は、調理による損失を考慮していない。そこまでの算出は難しい。だから、あくまで見かけ上の数字として使うしかない。
数字は便利。
数字はエビデンスとなる。
だが、人間が数字の奴隷になるのはおかしい。
「チャレンジ」は、必ず達成できるものではないから「チャレンジ」と言う。
英語の”Challenge”は、「挑戦」という意味とともに、「決闘」「抗議」「異議申し立て」などの意味を持つ。
必ず勝つとは限らない。
「必ず(100%)達成せよ」と部下に対してプレッシャーをかけるのは、「チャレンジ」という言葉の真の意味を理解していないと思う。
最近、非公開のイベントへ、一人ずつ声をかける経験をした。
気持ちよかった。
Facebookでは「イベント」のお知らせを大量にいただく。
有難いことだが、大量過ぎて、すべてを読むことができにくい。
4〜5年間ほとんど交流がない方からの招待や、とても行くことができづらい設定(場所や日時)だと、「たぶん、これは本気で心の底から自分に来て欲しいと思っているわけではないのかな」と感じてしまう。
「イベント、何百人参加!」というのは、結果を数字で表わすのにはいいかもしれないが、ひとり一人の顔を丁寧に見るのが難しい面もあると思う。
数字は大事。
だが、数字では見えないところも大事。
5歳のとき、男に誘拐された。
今思えば、あれは性犯罪未遂だった。
当時暮らしていた世田谷区の社宅。
団地のような棟が建て並ぶ、
棟と棟との間で遊んでいた。
そこへ、男がやってきた。
言われるまま、別の棟に連れていかれた。
コンクリートの建物。
ドアとドアが向かい合う場所。
男は着衣を脱いだ。
私に対し、指示をした。
あのままだったら、どうなっていただろう。
幸い、女性がドアを開けて出てきたので
男は、何事もなかったようにふるまい
私はそのまま帰宅した。
母には言わなかった。
恐ろしい ”獣(けだもの)”のことを
母には言えなかった。
子どもは、言うべきことを親に言えないことがある。
事情があり、親と離れて暮らす子もいる。
やましさがあり、言えないこともある。
恥ずかしさから口を閉ざすこともある。
親に心配かけまい、と、黙ったまま
元気をよそおうこともある。
岩手の事件の男の子や、川崎市の事件の子も
おそらくそうだったのではないかと思うと
こころの奥が痛くなる。
大人が子どもと違うのは
判断力を備えていることだ。
語彙を会得し、伝える力もある。
弱い立場の子どもを守るためにも
言うべきことを言うのが大人。
誰かにおもねって
言うべきことを言わないのは
真の大人ではない。
(写真は小学生時代の私と弟、現在のさいたま市浦和区にて)
Photo: Me and younger brother when we were kids
「私以外 私じゃないの♪」という歌がラジオで流れると、DJの方が「当たり前」とツッコミを入れるのをときどき耳にします。
当たり前なんだけど、この歌詞はとても深い。
わたしじゃないわたしで生きている人が多い。
3.11以降、自分を含めて強く感じます。
演じている人。
自戒を込めて言うと、演じている人の特徴は
1、(取り組んだその物事が)長く続かない。ポーズだから。
2、こころの底からやっていないので愛情が感じられない。
3、自分の使命として取り組んでいないので説得力がない。
4、なぜそれをするのか?と問われたとき、その「なぜ」がない。
5、(その物事を)楽しんでいない。
もちろん、生活がかかっているから変えられない人も多い。
社会的地位や給与を失いたくないから演じている人も多い。
その「社会的地位や給与が高い自分」が自分そのものならいいが、自分じゃないのにかじりついている人もいる。コンプレックスは誰もが持っているものだけど、固執する人は、コンプレックスが過剰に強い傾向にあるのを感じる。
自分の命というものを考えたきっかけは、
10代のときに父親が亡くなったこと。
誕生日である3.11に、多くの方が亡くなったこと。
最近だと、新幹線の事件に巻き込まれて女性が亡くなったこと。
その女性が新幹線に乗るときFacebookに投稿した最後の書き込みを読んだ。
「これまでの平穏無事のお礼参りに伊勢神宮へ伺います」
言葉は、その人が考えていることを如実にあらわす。
日々の言葉は、自分が死んでも残る。
自分の言葉は、いま自分が死んで残ったとしても恥ずかしくないものだろうか。
生きている今、ほかの誰でもない、自分にしか残せない言葉だろうか。