今年もマンガ家でイラストレーターの高橋カオリさんにお願いして、自己紹介マンガ「イデルミ物語」を作成して頂きました!
「人生 Life」カテゴリーアーカイブ
成功者3000人の言葉
「成功者3000人の言葉 人生をひらく99の基本」。
著者の上阪徹さんが、これまで取材した3000人から得た名言について書かれています。
2ページごとに言葉が書かれていて、読みやすいです。
最後の「人生はビスケットの缶」は、言い得て妙。
ビジネス書が好きな方にお勧めします。
リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる
外山滋比古さんの著書。
「リンゴも人生もキズがあるほど甘くなる」
帯の言葉:
「厄介なことは忘れるに限る」
「失敗のない成功は危ない」
「生きるとはきれい事じゃない」
「キズがあってかえっていいこともあるのが人間の不思議」
「無キズはキズに及ばないことがいくらでもある」
「キズのついたリンゴ。なんとかそれをかばおうとして、力を出すのである。無キズのリンゴよりうまくなるのである。キズのないリンゴだってなまけているわけではないが、キズのあるリンゴのひたむきな努力に及ばないのか。人間にも似たことがある。」
帯の言葉を読み、救われる思いがしました。
キズがあってもいい。
いや、キズがあったほうが、いい。
2014年11月11日 ー 東日本大震災の月命日に
「もう、食べ物は足りてます」
2011年3月11日に発生した
東日本大震災からおよそ10日あまり経った日のこと、
首相官邸に電話したとき電話に出た男性が答えた。
思えば、あの一言が、
14年半勤めた会社を辞める引き金だったかもしれない。
こころの中で言い返した。
(足りてないだろ!)
いや、
言い返す気力すら失った
というほうが正確かもしれない。
確かに、食べ物は、
あるところには莫大にあった。
ただ、その食べ物が、
あのとき本当に必要としている人には届いていなかった。
一つのおにぎりを4人で分け合っている話。
一日の食べ物がソーセージしかない、という話。
被災地の現場からは、
食べ物が無い現状がひしひしと伝わってきていた。
この男性は、
被災地の現場の実情を把握していないのだろう。
首相官邸というマネジメント機能を持つ場所にいる人間が
災害の渦中にあるとき
自分自身でわざわざ被災地に出向く必要などない。
だが
たとえ遠隔地にいても、
現場の状況を把握し
適切な指示を出すことは必要ではないか。
3月11日。
誕生日に、あの震災は起きた。
翌週から、農林水産省の方とやり取りして
勤務先の支援物資として
自社製品である食品22万800食を
被災地に届けるべく
運ぶ場所と手段を探していた。
ガソリンがない、
トラック業者が受け付けてくれない、
保管場所がすべて満杯。
1日経っても2日経っても
運ぶことができない。
そうこうするうち
海外の支社からも支援物資の食品を
送りたいという申し出が相次いだ。
オーストラリア、韓国、タイ・・・
オーストラリアは、
食品ごとに荷姿や詳しい情報をまとめた
エクセルファイルを送ってくれた。
農林水産省の担当者に聞いたところ
「それ(海外の件)は首相官邸に聞いてください」
首相官邸に電話すると
「厚生労働省に電話してください」
厚生労働省に電話すると
「検疫所に電話してください」
検疫所に電話すると
「税関に電話してください」
税関に電話すると
「港によって管轄が違います。
どこの港ですか?」
・・・・
知るか!
仕方がない。
海外の支援物資はいったん置いておいて
まずは国内の物資を運ばなくては。
震災の起こった次の週末は3月19日から三連休。
その間にも
農林水産省の方とやり取りし
とうとう東京の福生にある
米軍横田基地に運ぶことができるという知らせがきた。
工場長に連絡し、
10トントラック2台で22万800食を陸路で運び
そこからヘリコプターで
岩手県花巻市、宮城県仙台市へと運んだ。
2014年3月22日。
もう一度、首相官邸に電話した。
「もう、食べ物は足りてます」
「(被災地の人は)みんな国産がいいと言っています」
震災から10日あまり。
もう、動く人は動いていた。
行動する人は、自分の置かれた立場で
行動していた。
担当してくれていた農林水産省はもちろん、
自衛隊、NPO、企業、学校、寺・・・
人は、危機に際すると、本音がみえる。
人だけではない。
組織も、危機的な状況にさらされると
その組織の本性があばかれる。
あのような未曾有の大震災に際し、
現場にいきたいと強く思ったし、
自分は「行動する人」でありたいと思った。
迷ったあげく、辞めた。
いまの安倍政権なら
「女性の活躍」と賞賛するであろう
管理職のポジションを捨てた。
もしかして、
あの選択は
間違いだったのだろうか。
人生は、選択の機会に満ちあふれている。
自分の意志で選択することもある。
自分の意志に関係なく
選択せざるを得ない状況に突然置かれることもある。
選択のたびに
迷う。
悩む。
後悔する。
でも、
たとえネガティブにみえることでも
それを
まったく正反対にひっくり返すことはできる。
人生の選択に間違いは無い。
自分自身で、
その選択を
自分にとっての「正解」に創っていくのだ。
(写真は2011年4月、震災から1ヶ月経ち、宮城県の避難所で栄養不足が発生していると聞き、会社で二度目の支援物資となる23万9700食のほとんどをトラックに載せて運び、宮城県石巻市の石巻専修大学に設置された倉庫へおろしているところ)
このコラムは、ひきたよしあきさん著『あなたは「言葉」でできている』のエピソードノートを参考にし、自分のエピソードを思い出して書いたものです。
父は私の中に生きている
「お父さん、倒れたって!」
奈良女子大学寮の4人部屋で一緒の先輩が、
わざわざバイト先まで
走って呼びに来てくれた。
当時、携帯電話などという便利なものは無い。
奈良市内にある商店街の、
奈良漬を売る老舗店。
その2階にある
北海道料理の居酒屋で
アルバイトをしていた。
月曜日。
12月の寒い日。
風邪をひいていた父が、
はり・きゅう治療へ行き、
そこで倒れ、
入院した、と。
木曜日、
また電話があった。
もう命が危ないから帰ってくるように、
との報せ。
その夜は眠れなかった。
一方、
こうなることを
頭の片隅で予想していたかのような、
妙に冷静な自分がいた。
編みかけの
濃い青色のセーターを、
徹夜して仕上げた。
金曜の早朝、
青いセーターを着て
大阪空港から高知空港へと向かった。
母と弟が病院にいた。
父の意識は
すでに無かった。
夏に帰省して以来、
二度目に帰る
高知城近くの社宅。
布団をかぶった。
涙が出た。
土曜の朝7時過ぎ、
父の息は止まった。
医師が、
私と弟を別室に呼び、
脳梗塞という病気の説明をしてくれた。
まだ10代の我々に対し、
メモ用紙に脳の内部の血管の絵を描き、
真摯に、丁寧に、説明してくれた。
火葬場で、
45歳だった母は
喪服をまとい、
泣き叫んだ。
46歳の父。
弟は10歳。
その日から
「男にならなきゃ」と思った。
大黒柱を失い
母と幼い弟が残された。
自分は父親代わりにならなくては。
大学では奨学金をもらった。
母と弟は、社宅を追い出された。
千葉県八千代市の持ち家に帰りたいが、
銀行の人に貸してしまい、入れない。
母と弟は、
持ち家近くのアパートに入ることになった。
父が持っていた大量の蔵書。
小さなアパートには入り切らない。
10歳の弟が自転車をこぎ
自転車に乗れない母を後ろに乗せ、
父の蔵書を載せ、
古本屋に売って廻ったことを
あとで知った。
銀行の支店長だった父の父(祖父)の意向で
支店長を目指し、
ようやく支店長になったと思ったら
5ヶ月後に死んだ。
死んでしまえば
もう銀行の職員ではないので
社宅は追い出される。
組織というところは
いくら貢献しようが
死ねば終いだ。
一人居なくなっても、
仕事ぶりに違いはあっても、
いくらでも代わりはいる。
あの日を境に
内向的だった私は
行動的になっていった。
人間、いつ死ぬかわからない。
今、やっておかなければ
いつ死んでしまうかわからない。
「どこからそのエネルギーが出てくるんですか?」
と聞かれる。
そのたびに、
父を思い出す。
父は、私の中に生きている。
(写真:札幌支店勤務の頃の父と私)