父は私の中に生きている

昨年書いたノートです。

父の命日、12月14日に。

あれから30年。

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『父は私の中に生きている』

「お父さん、倒れたって!」
奈良女子大学寮の4人部屋で一緒の先輩が、
わざわざバイト先まで
走って呼びに来てくれた。
当時、携帯電話などという便利なものは無い。

奈良市内にある商店街の、
奈良漬を売る老舗店。
その2階にある
北海道料理の居酒屋で
アルバイトをしていた。
月曜日。
12月の寒い日。
風邪をひいていた父が、
はり・きゅう治療へ行き、
そこで倒れ、
入院した、と。

木曜日、
また電話があった。
もう命が危ないから帰ってくるように、
との報せ。

その夜は眠れなかった。

一方、
こうなることを
頭の片隅で予想していたかのような、
妙に冷静な自分がいた。

編みかけの
濃い青色のセーターを、
徹夜して仕上げた。

金曜の早朝、
青いセーターを着て
大阪空港から高知空港へと向かった。

母と弟が病院にいた。
父の意識は
すでに無かった。
夏に帰省して以来、
二度目に帰る
高知城近くの社宅。
布団をかぶった。
涙が出た。

土曜の朝7時過ぎ、
父の息は止まった。
医師が、
私と弟を別室に呼び、
脳梗塞という病気の説明をしてくれた。
まだ10代の我々に対し、
メモ用紙に脳の内部の血管の絵を描き、
真摯に、丁寧に、説明してくれた。

火葬場で、
45歳だった母は
喪服をまとい、
泣き叫んだ。
46歳の父。
弟は10歳。

その日から
「男にならなきゃ」と思った。
大黒柱を失い
母と幼い弟が残された。
自分は父親代わりにならなくては。

大学では奨学金をもらった。
母と弟は、社宅を追い出された。
千葉県八千代市の持ち家に帰りたいが、
銀行の人に貸してしまい、入れない。
母と弟は、
持ち家近くのアパートに入ることになった。

父が持っていた大量の蔵書。
小さなアパートには入り切らない。
10歳の弟が自転車をこぎ
自転車に乗れない母を後ろに乗せ、
父の蔵書を載せ、
古本屋に売って廻ったことを
あとで知った。

銀行の支店長だった父の父(祖父)の意向で
支店長を目指し、
ようやく支店長になったと思ったら
5ヶ月後に死んだ。
死んでしまえば
もう銀行の職員ではないので
社宅は追い出される。

組織というところは
いくら貢献しようが
死ねば終いだ。
一人居なくなっても、
仕事ぶりに違いはあっても、
いくらでも代わりはいる。

あの日を境に
内向的だった私は
行動的になっていった。
人間、いつ死ぬかわからない。
今、やっておかなければ
いつ死んでしまうかわからない。

「どこからそのエネルギーが出てくるんですか?」
と聞かれる。
そのたびに、
父を思い出す。

父は、私の中に生きている。

(写真:札幌支店勤務の頃の父と私)

Iderumi_Father_tsukushi

Iderumi_Father_Kesyo

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所属したくない欲求

ある集団に所属したい「所属欲求」というのがあります。
この逆に「所属したくない欲求」というのはあるのでしょうか。

人の集まりによって、他者(異端児・異分野の人間)を受け入れる許容度に差があるのを感じます。ある共通性を持ち、ゆるく繋がったグループであれば、他者を受け入れようとする寛容さが保たれています。一方、ある共通性を持ち、それ以外の他者を排他的に見るグループに入ると、呼吸ができない居心地の悪さを感じます。したがって「敬して遠ざかる」。同じ志向(思考)を持つ人で固めてそれ以外を排除すれば、管理する側にとっては効率がいいかもしれません。でも、自分と他人がまったく同じように考える・・・わけがない。その「異端」を強制的に排除しようとすると、闘いがいくら起こってもキリがない。

私が居心地よく感じるのは、多種多様な組織の人が集まり、冷静に、客観的に、俯瞰的に、対等に、話すことができる場です。

たとえば青年海外協力隊の訓練所では、心そのものが躍動するような喜びを感じました。出身は北海道から沖縄まで、年齢は20歳から40歳まで、職種は160種類以上の人間が集まる。一人ひとりのできることには限りがあっても、違った強みやプロフェッショナルな分野を持つ人が集まると、ものすごい力になるなあ、と。

あるいはチャイルドライン支援センターでの、子どものいじめや自殺をなくすための超党派の勉強会。「党派がいがみ合うのでなく、党派を超えて同じ目的で活動できるっていいなあ」と感じました。

また、宗派を超えた「超宗派」の全国のお寺210以上が集まる彼岸寺(ひがんじ)の「おてらおやつクラブ」の趣旨にも共感します。お供物の食品がだめになってしまうことが多く、だめになる前に、食べ物に困っている子どもたちに届ける活動。

 彼岸寺 http://www.higan.net

 おてらおやつクラブ http://otera-oyatsu.club

これは自分が転校生(アウェイ)として全国転々と育ってきたことに由来しているのか。それとも、そういう生い立ちとは関係なく、同様に感じている人がいるのか。「滅私奉公」は、以前に比べて減ってはきましたが、「「所属欲求」を持ち、一つの組織や集団「だけ」に所属していることを「是」とし「快」と感ずる人は、案外多いのではと感じます。

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当たり前の日常が奇跡なんだよ。

大げさかもしれないけど、Facebookの投稿って遺書みたいなものだと思う。

社会人大学院時代にお世話になった女性研究者が、海外渡航中に交通事故で亡くなった、と。

先週、島根での講演に行く飛行機の中で知りました。

気づいたら、英語や日本語のニュースで既に多数報道されていました。

もう、彼女は投稿することが叶わない。これまでの投稿はすべてこの世に「書き残したこと」。彼女が亡くなった瞬間、「日常の投稿」は「遺書」に変わってしまった。

大きな車輛にひかれた瞬間、どんなにか痛かっただろう。喪主を務めたお父様は、子を喪い、どれほど悲しかったろう。いろんな思いが頭をかけ巡り、ここ一週間、にぶい鐘の音・・ゴワンゴワンゴワン・・・という音が頭の中で鳴り続け、じわじわしたボディブローのような衝撃を受けています。

普段、気軽に書いている内容は、なにも決死の覚悟で書いているわけじゃあない。でも、ある意味「自分の持ち時間 = 命」を削って書いている。

あとどれくらい生きていられるかはわからないけれど、命ある間に、自分は何を書き残せるだろう。

『当たり前の日常が奇跡なんだよ。』(故 井上ひさし氏)

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憧れの方と対面 伊那食品工業(株)会長 塚越寛さん

ずっと憧れていた方、伊那食品工業株式会社会長の塚越寛さんにお会いすることができました。

  

塚越さんのご著書「リストラなしの”年輪経営”」にある考え方に共感し、ケロッグ広報時代にもよく「広報室ニュースレター」で社内に紹介しておりました。

  

ちょうどその頃、ケロッグ本社の近くにかんてんぱぱカフェ初台店があり、100回以上は通ったと思います!

いろんな方をお連れしました。

  

今回は、日本食物繊維学会の理事会が伊那食品工業株式会社で開催されるということで、ご縁をいただきました。

私も「いい会社」「いい社会」を創っていきたいです。

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手書きの効用

今や手書きで文字を書くことは圧倒的に少なくなりました。年賀状くらい?

ケロッグ広報時代、メディアで「シリアルを食べている」という著名人を見つけては、直筆で御礼の手紙を書き、商品をお送りするというのを14年5か月続けていました。

それがきっかけで商品のファンになってくださり、いまだに文通している女優さんもいます。

感謝の手紙を下さったお笑いタレントさんや、テレビ番組でケロッグの姿勢に触れてくださった方もいらっしゃいました。

仕事で手書きの手紙を書く。

面倒なことこそ価値があるかもしれません。

http://www.advertimes.com/20151126/article210154/

(写真はケロッグ広報時代、宣伝会議の月刊誌「広報会議」で2ページ特集して下さったときのもの)

Appeared on the monthly magazine “Koho Kaigi”

広報会議9月号コピー縮小

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