どの国に行っても、大都市に行っても、路上に座っている人が目に入る。トルコのイスタンブールでは、サバサンドを売る場所の近くの橋の下に、女性と赤ちゃんが座っていた。イタリアのミラノではドゥオーモのそばに背広を着た男性が座っていた。マレーシアのクアラルンプールでは、ホテルのそばの交差路に座った年配男性が、白いプラスティックの空のタッパーを持ち、道行く人に差し出していた。
どの国でも、たいがいサンドウィッチを買って持ち歩いているので、たまたま持っていたものか、自分が食べたあと、多かったので余っていたものを渡す。でも常に思うのは「これは不遜な行為ではないか」ということ。だから、渡したらすぐ全速力で走って逃げる。
「困っている人を助ける」という活動をしている人の中に、身近な人に攻撃してくる人がいる。その人の活動がこころの底からのほんとうのものなら、まず身近な人に優しくするのが先ではないか。コップから水があふれ出るように、水面に投げた石から輪がだんだん大きく広がるように、家族や友人や仲間に与えていた愛情が、そのまわりの人、そしてもっと遠くの人へと、だんだんに広がっていくのが、ほんとうの「困っている人を助ける」活動ではないのか。身近な人にすら優しくできない人が、なぜ、遠くの人や多くの人に優しくできるのか。
自分が救われたいからという自己中心的な動機で人を助ける「救世主(メサイア)コンプレックス:Messiah complex」は、本来「困っている人」が主語なはずなのに、自分(=「助ける」人)が主語になっている。自分が救世主になりたいがために、困った人(自分より下位な人)を求める。メサイアコンプレックスの人は、攻撃性を隠蔽したモラルハラスメントで攻撃してくることも多いという。メサイアコンプレックスとモラルハラスメントは同じ心理状態らしい。自分が善人だと思っているため、話し合いは通用しない。自分や隣の人すら愛せない人が、なぜ人類を愛せるのか。
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