「(一つのプロジェクトが終わるまでは)穏便に済ませるのを良しとする」「揉めたくないから本音は言わない」といった、表向きは穏やかでもお腹の中は違っていたという姿勢に出逢って以来、心の中がざわざわしています。「怒るのはいけないこと」という意見を目にし、本当にそうなのかなと疑問に思っています。
怒りという感情が爆発し、他人に対する攻撃や暴力、犯罪などに変換されてしまうのは当然良くないこと。一方、自分に対する向上心や、組織・社会が改善されることに繋がるなら、怒りは建設的なものに転換し得ると考えます。
「不快な怒り」とは、他者にネガティブな感情をぶつけることに終始し、今となんら変わらない、もしくはよけい悪くなるもの。
「痛快な怒り」とは、今より良くなることに繋がるもの。それを聞いても気分が害することなく「そうそう!そうだよね」と前向きな気持ちになれるもの。。かな?
きのう投稿した和田秀樹さんの著書に「教育の重要性は、自分の怒りを言葉や思考や理論に深化させるため」とありました。たとえば、渋滞の交差点に立腹し、強引に侵入しても混乱が大きくなるだけ。そうではなく、そういう事態に出逢ったとき、「この交差点に左折信号を作ったほうが流れるのでは」という改善案を考える力や、それを論理的に文章化し、警察や役所なりに提案する力を育てるのが教育である、と。「勉強も同じで、怒りのエネルギーをプラスに転化するのも勉強の理由の一つ」と。これは納得できました。怒りを青空のようにさわやかに明るく転換できればいいのにな。
How to recognize and deal with anger – one of my theme
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はじめてコメントさせていただきます。「怒り」は自分を守るためには必要な感情だとは思いますが、周囲とうまくやっていくときには厄介な感情ですよね。何か建設的な行動をおこすきっかけに「怒り」があったとしても、その行動に移すためには「怒り」を何らかの形で転換(和田さんのおっしゃる深化でしょうか)させないと、そのような行動にはなりにくいと思います。転換した時点では「怒り」はおさまっていると思うので、「怒るのがいけない」のではなくて「怒りをおさめられずにいることが問題」なんだと思います。「さわらぬ神に祟りなし」状態になっては、周囲は本当のことは言いにくくなってしまいます。特につきあいの浅い人ならなおさら。
はじめてのコメント、ありがとうございます。
おっしゃる通り、やっかいな感情ですね。
「怒りをおさめられずにいること」というのは、主観的なものの見方から抜け出せず、自分の考えや感情に固執している状態ではないかと思います。
そこから脱出し、自分と他者(相手)とを客観的に、俯瞰して見ることができるようになれれば、怒りは「ネガティブで厄介な感情」から「正しく議論できる事柄」に転換できるのではないでしょうか。「口論(喧嘩)」はネガティブでも、「議論」はポジティブです。
うまく文章で表現できず、申し訳ないです。
哲学者の小川仁志さんの著書「怒りの作法 抗議と対話をめぐる哲学は、私にとっては共感できやすい内容でした(下記引用ご参照)。小川さんいわく「哲学の知見から指南することで、キレるのでもなく、また我慢するのでもない、理想の第三の生き方の提案」を書いた本です。
『然るべき事柄に対し、然るべき人に対して、然るべき仕方で、然るべき間だけ怒る。これが賞賛すべき怒りのあり方であって、こうした怒り方のできる人を温和な人と呼ぶのです』
『価値観が多様化すればするほど、言葉で説明することが必要になってきます。あうんの呼吸でなんとかなる時代は終わりました。これからはますますグローバル化が進展し、異なる文化や価値観を持った人が増えるのは間違いありません。そんな中でも怒りを爆発させてしまうことなく、正しく怒るためにはどうすればいいのか。』
『社会が行き詰まる今だからこそ、歴史を変え、世界を動かしてきた激しい怒りが、今また求められているのです』