「将来こうなる」と思い描いていたその通りに実現した人って、どのくらいいるのかな。ある面談で問われた「確固たるビジョン(とは何か)」に違和感がぬぐえない。自分の将来を真摯に考え、もやもやした迷いが生じ、そこに光明を見出したいからこそ、転職や起業や留学や進学など、リスクをとってでもチャレンジしようと考えるのではないだろうか。青年海外協力隊にチャレンジする人が、2年経った帰国後の自分の姿を微に入り細に入り描くことができるだろうか。少なくとも私はできなかった。でもチャレンジする人は、ディテールは描けなくても、漠とした自分の方向性(ベクトル)や軸は描いていると思う。当時、私は5歳から好きだった「食」の分野へ方向転換したいと願い、何らかの分野で(他の隊員のように)プロフェッショナルになりたいと考え、企業を辞めて参加することで、自分の志向と適性に合ったキャリアにすこしずつ近づいてきた。つもりである。ビジョンを語ることを否定するのではない。細かいビジョンを決め込むのと、大枠の方向性(ベクトル)を決めて進むのと、どちらがいいのだろう。人生、ハプニングはつきものである。細かいことを計画してもその通りになどいかない。人生すべてを自分の意のままにコントロールできるものと考えるのは傲慢ではないか。ビジョンを細かく決めその通りに進むことが優秀な人生なのではなく、ハプニング ー挫折や失敗や不合格や身内の死・・・ー に遭遇しても、思い通りにいかなくても傷ついても、不遇をかこつことなく、柳のようにたおやかに生きる心身と行動力を持つことのほうが大切ではないだろうか。ちなみに私が高校生のとき思い描いた自分のビジョンは「田舎の小学校の給食のおばさん」だった。実現はしてないけど、「食」の方向に進んできたことには違いない。(写真は先月、イタリア・ヴェネツィアで撮影したもの)Is it important that I clarify a vision?
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