1997年から14年半、外資系食品メーカーに勤めていた。広報室長を務めていた2008年に、米国本社から、日本のフードバンク団体であるセカンドハーベスト・ジャパン(2HJ)を紹介され、その年から食品を寄贈し、フードバンクに協力する食品企業との会合に定期的に出席、テレビ番組などのマスメディアに出演するなどして、食品ロスという社会的課題にささやかながら関わってきた。2011年3月11日、自分自身の誕生日でもあるこの日に東日本大震災が発生した直後より、自社製品を被災地に寄贈するための窓口となり、農林水産省はじめとした行政を介して宮城県仙台市と岩手県花巻市に22万800食を提供した。このとき、ある場所には食べ物がたくさんあるにも関わらず、必要な場所にはまったく届かないというもどかしい思いを経験したことが、その後のキャリアの転身に繋がった。2011年4月からは、勤務先のボランティア休暇を活用し、半日ずつなど細切れの日程ではあったが、復興支援活動に参加した。
およそ1ヶ月後、2011年4月に「宮城県の避難所で栄養不足が発生」という報道を目にし、再び勤務先の自社製品23万9700食を支援物資として手配した。このときには宮城県石巻市まで2HJのトラックに載って現地入りした。行動したいという思いから2011年9月で退職。最終出社を終えた8月、宮城県石巻市へ支援に行った帰り、セカンドハーベスト・ジャパンから「うちの広報をやってもらえないか」と依頼があり、2011年9月から2014年11月初旬までセカンドハーベスト・ジャパンの広報室長を務めた。